
延暦寺が三千坊といわれた時代、六千坊とうたわれた白山麓の巨大都市。「いまだ発掘はその1%ほど」というケタ外れの中世宗教都市を支えた石畳の道が山間に伸びていく。
白山平泉寺は、717年に泰澄大師が開いたとされる。白山を霊峰として信仰する山岳信仰の寺である。九頭竜川流域を支配する豪族たちが競って居を構え、戦国時代には、48の社、36のお堂、6000の僧坊を擁したといわれ、巨大な宗教都市だったようだ。発掘された戦国時代の町並みは、お堂や塔があった宗教域、僧坊があった居住域、市が開かれた商業域に整備され、僧・職人・商人・一般の民が住まう中世の一大都市だったことがうかがえる。現在発掘されているのは2haほどで、旧境内全体のわずか1%にすぎない。
平泉寺は日本では珍しい石で築かれた都市で、国内最大の中世石畳の道のほか、石垣も多く残されている。日本の本格的な石垣は安土城が最初とされているが、平泉寺の方が古く、中世の姿そのままの石畳道が当時の栄華をしのばせている。

4つの「日本の百選」に選ばれたコースを含む「平泉寺 中世の石畳道」は一周約2km、ゆっくり回って1時間程度の散策路。司馬遼太郎が「京都の寺より美しい」と評した杉木立の神社境内、発掘石畳と屋敷跡の石垣、昔の僧坊の面影を残す集落町並みなどを見ながら歩く。美しい自然と悠久の歴史に触れる全国屈指の散策路だ。


福井県坂井市三国町の観光地「東尋坊」という地名は、平泉寺の僧だった「東尋坊」が、ここから突き落とされたという故事からついた。平泉寺の勢力が白山麓から九頭竜川河口の三国町まで及んでいたことがうかがえる。

大量の石はどこから?
石畳の石は河原、石垣は山から運んだとみられている。石垣は主に「野面(のづら)積み」という日本古来の積み方がされている。石づくりの都市は中世には珍しいが、石づくりだからこそ現存する貴重な遺産だ。
【拝殿・本殿】
苔むした境内に残る礎石はかつての拝殿のもので、間口三十三間という大きさを物語る。
【本殿前の石垣】
拝殿から本殿へ上るところにある大石垣。どうやって運んだのかと思われるほどの巨石が使われているが、室町末期のころ、勢力争いをしていた2人の僧が、力を誇示するために競って巨石を運ばせた結果だとされる。
【御手洗(みたらし)の池】
泰澄大師がここで神様に出会ったことが、平泉寺の始まり。「平清水」「平泉」とも呼ばれ、平泉寺の名前の元にもなった。
【旧玄成院(げんじょういん)庭園】
北陸で現存する庭園としては大変古く、約480年前に室町幕府の管領・細川高国が作ったとされる。様式は枯山水で国の名勝に指定されている。
【南谷発掘地】
平成元年からの発掘で掘り出された石畳の道、僧坊の跡(屋敷跡)。石でしっかり区画整理されており、僧坊への入口が計画的に配置されている。
【集落】
今も住宅を囲んでいる石垣は、かつての僧坊にあったものが元になっている。
【菩提林】
平泉寺へのプロムナード。石畳と杉木立が見事。「日本の道百選」選定区間。